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✎理事長ブログ

地下鉄サリン事件の思い出

2015-03-20
 平成27年3月20日の朝、地下鉄サリン事件から20年が経った。20年も経つと事件も風化するのか、テレビではNHKだけが、今も多くの人が後遺症に苦しんでいる事を報じている。
 
 30年前アメリカのエール大学で診療していた頃、私の研究テーマは「神経障害で収縮できなくなった膀胱を効率よく収縮させて、排尿障害を治療する薬の開発」であった。「排尿」つまり「おしっこをする」為には、膀胱が収縮しなければいけない。膀胱収縮に関与する神経には、脳神経、脊髄神経、脊髄から膀胱までの末梢神経があり、それらをうまくコントロールして膀胱を収縮させる薬は無かった。神経障害の為にうまくおしっこができない事が病気である事すら医師の間でも余り知られていなかった時代である。そのような病態は「神経因性膀胱」と呼ばれ、私は、患者さんには「神経障害が原因でおしっこが出来なくなる病気で、原因となる神経障害には、脳出血や脳梗塞や脊髄の病気のような中枢神経の病気だけでなく、子宮癌や直腸癌で手術をして周囲の神経を切ってしまった場合や糖尿病で末梢神経が侵された場合などがある」と説明していた程である。
 一般的に筋肉が収縮する為には、神経の末端からアセチルコリンという神経伝達物質が分泌され、筋肉の細胞にあるアセチルコリン受容体と結合する事が必要である。このアセチルコリンが減少したり、アセチルコリンに対する感受性が低下すると、筋肉の収縮が起こらなくなる。そのような病気の代表には、瞼が垂れ下がってくる「重症筋無力症」という難病があるが、この病気に効く薬はアセチルコリン分解酵素阻害薬のウブレチッドである。体内で神経分泌されたアセチルコリンを分解する酵素を阻害して、体内にアセチルコリンを蓄積させる薬である。
 30年前アメリカで膀胱筋が収縮しない患者を治療していた時、重症筋無力症に使われているウブレチッドが効くのではないかと考えた。膀胱筋が収縮しない状態を、いわば、膀胱筋無力症と考えたわけである。瞼の筋肉は横紋筋であるが、膀胱は平滑筋であり、横紋筋より収縮しにくいため、投与するウブレチッドの最大量を決めるため、数多くの動物実験が必要であった。実験を重ねた結果、ウブレチッドは大量に投与すると、体内でアセチルコリンが増えすぎて、脳の働きが過剰になって痙攣発作を起こし、瞳孔は縮瞳し、唾液が多量に分泌されるため気道が詰まって呼吸困難になり、口から泡を吹くようになり、また、腸や膀胱の過激な収縮によって尿や便は垂流し状態になり、死亡することが分かった。アメリカで研究をしている時に、ウブレチッドのようなコリン分解酵素阻害薬の一つにサリンがあり、サリンはウブレチッドよりも遥かに猛毒である事を学んだ。
 
 平成7年3月20日朝、その事件は起こった。私の勤務先であった東京医科歯科大学は学内に地下鉄お茶の水駅の出入り口があるが、その出入り口から、口から泡を吹き痙攣発作を起こした患者さんが次々と運び込まれてきた。地下鉄サリン事件である。救急外来の医師はガス中毒や薬物中毒を想定し、救急蘇生を施していた。目の回るような忙しさだった。救急外来の医師だけでは対応できず、泌尿器科の医師にも招集がかかり、その日外来当番であった私も駆け付けた。
 一目見て分かった。通常、意識が消失する場合、目は散瞳するが、それらの患者は全て縮瞳していた。とっさにエール大学で基礎実験をしていた時の記憶がよぎった。「体の中にアセチルコリンが充満している。アセチルコリン中毒だ!」そう叫んで、周りの医師たちに病状を説明し、即座に、アセチルコリン阻害薬のアトロピンを注射するように助言した。幸いにも東京医科歯科大学に運び込まれた患者さんは、全員回復して、無事退院した。
 
 地下鉄サリン事件の起こった平成7年から3年後の平成10年5月に神経因性膀胱に対する薬物治療が評価されて「日本神経因性膀胱学会賞」を授与された。地下鉄サリン事件で私が与えた薬物の助言が関係したかどうかは定かではないが、大学では「泌尿器科の森田先生は臨床家でありながら薬の基礎にとても詳しい」と噂されていると聞いた。
 
 3月20日が来るたびに、サリン事件を思い出すと同時に、診療と基礎実験に明け暮れたエール大学での懐かしい日々に胸がキュンとする。
 
平成27年3月20日 理事長 森田隆
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