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✎理事長ブログ

平成22年度決算を終えて

2011-06-01
 東日本大震災から3ヶ月が経とうとしている。震災の復興は現在も国のレベルで行われているが、施設の活動は震災前の状態に戻り、平成22年度の決算も、3月の落ち込みが大きかったものの、前年度並であり、職員給与の定期昇給も実施できた。現在、施設では、地震、原発事故を含めた災害時緊急マニュアルを点検整備中であり、再度の災害に備えての備蓄を急いでいるところである。
 ところで、地震による災害で学んだことが沢山ある。施設で起こった事の経過や対応を記すことで、学んだことを報告したい。
 当施設は介護老人保健施設(老健)と特別養護老人ホーム(特養)である。地震発生時、いずれの施設も耐震免震設計であるにもかかわらず、特養では、家具が散乱して危険であるとして、スロープを使って入所者を屋外に避難させてしまった。避難訓練を行っていたので、避難は安全、スムーズに出来たが、地震が収まった後で、停電でエレベーターが動かなかったため、約2週間もの間、入所者は自分の居室に帰ることが出来ず、全員が一階で避難所のように過ごすことになった。それに対して、老健では施設が耐震設計であることを周知していたため、入所者の安全を守る処置をとっただけで、地震が収まってからは、そのまま、居室で生活できた。ちなみに、地震による建物の被害はまったくといって良いほどなかった。避難はその場の状況だけでなく避難した後のことも考えて行うことが大切である。
 災害発生時は初動の行動が特に大切である。地震によって電気、ガス、水道が止まったため、直後に職員をホームセンターに走らせ、懐中電灯、食料などを調達させた。その際、職員には施設の身分証明書を持たせたことが功を奏し、介護施設であることから、沢山の物を分けてもらうことが出来た。ガスは業者さんが、業務用のボンベとコンロを運んできてくれた。あとは水である。施設には13tの水タンクが2基あるので安心していたが、次の日には水が底をついてしまった。利用者が、水道から普通どおり水が出るので、水道が止まったことに気づかず、水洗トイレにも使ってしまったからだ。
 津波の被害にあった、私の兄の経営する森田水産から連絡があり、「流されなかった水産物を、ひたちなか市の避難所に寄付したが、まだ少し余っているので、食料が足りなければ取りにくるように。」との事であり、トラックでとりに行った。その後3週間もの間、入所者の食事のおかずになり職員一同感謝しています。
 それにしても、水がない。行政から配給になる水だけでは、食事、飲料にも事欠くので、職員と頭をひねって、施設の近くの井戸のあるお宅から水をもらうことを考えた。自動販売機の使用済みペットボトルを入れる容器を洗って中に100Lのビニールの袋を敷くと、立派な容器になった。水汲みチームを編成し、介護送迎車に容器6個を積んで1日2回水をもらいに行った。一人の一日の生活水が2Lであるから1200Lの水があればよさそうであるが、トイレ、体の清拭などに使うととても足りない。何しろ、施設で一日に使う水は、通常であれば26tなのだ。水、水、水と考えていたら、ゴルフ場には水があることに気がついた。ゴルフ場は芝の手入れをするために井戸水を使い、しかも水をまくために、散水車を持っているのが普通である。知り合いを通して、ゴルフ場経営者と交渉し、低価格で、26tの水をタンクに入れてもらうことが可能になった。一日おきにタンクに水を入れてもらい、水洗トイレと風呂に使うことが出来た。このタンクへの給水は、水道が復旧するまで約3週間続けた。水道が復旧してからは、タンクを洗浄し、全ての水の供給が出来るようになった。
 水のあとは、電気である。痰の吸引や、酸素吸入の必要な方もいるので、施設には自家発電設備がある。地震で停電になったとたん、自家発電装置が作動した。夜になっても、非常灯も点いており、何も問題がなかった。しかし、午後9時ごろ、停電後7時間で自家発電装置が停止した。業者を呼ぼうにも、電話がつながらないので、事務長と一緒に屋上の自家発電装置を見に行った。これまでは、停電になって自家発電装置が働いても停電が解除されると自動的に自家発電装置は停止するため、装置の点検も業者任せで、実際に自家発電装置を見たのは始めてである。屋上の自家発電装置は止まっており、よく見るとジーゼルエンジンではないか。つまり、ジーゼルエンジン車のガス欠である。ガソリンエンジンなら、ガソリンを入れればエンジンはかかるが、ジーゼルエンジンは、エア抜きをしないといけない。エアを抜きながらセルモーターを回しているうちに、バッテリーが上がってしまった。万事休すである。私の唯一の趣味はクラシックカーのレースであり、その為、バッテリーチャージャーは必需品である。那珂湊の車庫にバッテリーチャージャーを置いてあったので、停電で交通信号も消えている中、チャージャーをとりに行って、自家発電装置を起動した時には、真夜中になっていた。痰の吸引の必要な方が落ち着いていたのがせめてもの救いであった。それからは、ガス欠になる前にエンジンを止めて、給油をして、またエンジンをかけるというようにして、電気が回復する4,5日間をしのいだ。
 最近、大学病院の何人かの先生に「この大学の自家発電装置はどうなっているのですか。」と聞いたところ、「何なんですかね。大きな蓄電池が入っているんですかね。」世の中の標準はこの程度であることがわかった。それにしても、ガス欠になったジーゼルエンジンの始動は難しかった。原発の非常用発電装置に対しては職員はどんな認識を持っていたのだろうと思いをはせている。
非常時にはその人の中身が出るというが、震災時の職員の行動を見ていて経営者、管理者として、いろいろな思いがあった。沢山の入所者をかかえて四苦八苦している職員を尻目に「地震で家が心配だから帰らせてください。」と帰宅した職員がいる一方で、その日は休みで、家が津波にあって車も流されてしまったのに、施設を心配し、自転車で施設に出勤した職員。家族を連れて出勤して、家族とともに施設で仕事をしてくれた職員、施設を思う沢山の職員を目のあたりに出来た事は、大きな喜びであった。
 そして、施設が落ち着いたので5月下旬には、延び延びになっていた、伊香保温泉への職員研修旅行を行った。また、職員からの申し出で、定期昇給分の1か月分を災害義援金として送ることにした。
 すばらしい職員に囲まれて、平成23年度も親孝行の介護の実践に励みたいと思うこの頃である。
 
医療法人森田記念会
     理事長 森田隆
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